弘仁8年(817年)、伝教大師(最澄)が東国へ天台宗の布教に東山道を通られた折、神戸の地に立ち寄られた。当地の郡司・安八太夫安次は大師の教えに帰依した。それで大師は安次の懇請に応じて影向山(ようごうさん)神護寺善学院を建て、近江坂本・日吉神の四柱の神を勧請、日吉信仰の社を創建された。日吉神社である。
その後、40余年を経た貞観3年(861年※)、大師の弟子の慈覚大師(円仁)が伝教大師の足跡を慕って神戸の地に寄られ、日吉神社へ三柱の神を勧請された。
伝教大師が四柱、慈覚大師が三柱、合わせて七柱の神々が勧請されて祀られ、今日まで山王七社として奉幣されてきた。当時は神仏は一体であるという神仏習合説がとられた。この考え方により明治時代を迎え神仏分離令が出されるまで、善学院が神社の別当寺として運営に携わってきた。
大正2年(1913年)7月、県社に昇格。昭和20年(1945年)8月に太平洋戦争が終わると、国家と神道の分離指令が出されて社格が廃止され、その後金幣社となった。
※貞観2年(860年)説もある
大正時代と現在
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惣門 大正2年以前
三重塔 大正5年以前
境内 大正2年頃
本格的な由緒を知りたい方は以下のPDFファイルをご覧ください。
- 日吉神社 御由緒/PDFファイル:167KB